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広報えべつのルーツを探ってみたら、わずか4ページだった  | えべつのじかんコラム

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広報えべつのルーツを探ってみたら、わずか4ページだった

広報えべつは2023(令和5)年2月号で1000号を迎えました。
1000号の誌面では小さなサイズでしかお見せできなかった広報えべつのルーツを、もっと見てみたくありませんか?
当時の編集室の苦心が迫るその紙面を、このコラムでご紹介します。

町政だより1950(昭和25)年5月号 通巻1号

広報えべつの号数は、前身の市政だよりから数えています。
市政だよりは江別町が江別市になった1954(昭和29)年7月に始まりましたが、市政だよりの前は、町政だよりでした。

町政だよりは、第二次世界大戦の終戦から5年も経たない、1950(昭和25)年5月に第1号が発行されました。
今の広報えべつとはまったく違うその紙面を、写真とともにご紹介します。
*読みやすくするため、旧字体の漢字を今の漢字に直したり、漢字を平仮名に、送り仮名を足したりしているなど元と違うところがありますので、ご了承ください。

発刊の言葉(1面)

町政だより1950(昭和25)年5月号 1面 [PDFファイル/712KB]

町政の明朗化を希(こいねが)うて 町長 古田島薫平

『・・「お互いに語り合うこと」によって「お互いに知り合い」お互いに知り合うことによって、同心団結も出来て明るく住みよい町が出来上がるのであります
過去の当町にはそうした機会を作る何物もなかったことを遺憾に思っておりましたが、幸いに本年度から町議諸氏の理解ある賛同を得まして、町広報機関として【町政だより】を毎月発行することにいたしました』

古田島 薫平氏は、1947(昭和22)年4月から第7代江別町長、1950(昭和25)年7月の市政施行を経て、1959(昭和34)年4月まで初代市長を務めた方でした。
当時の町政にどんな課題があったのか、正確には知る由もありませんが、広報活動の意義は、今も昔もまったく変わらないものと感じさせられます。

このほか、町議会議長の寄稿『「町政だより」に期待して』、昭和25年度町予算のあらすじと続いています。
題字の下に、発行所が江別町役場、電話 (代表)3番 と書かれています。
このときの電話は、電話を掛けたい人が電話局にいる電話交換手と話し、呼び出したい相手先を伝えると電話交換手が操作をして掛けたい先に繋いでくれるという仕組みでした。
電話が設置されている場所に行って、「3番お願いします」と伝えて電話していたのはないでしょうか。

*電話と江別の発展についてはこちらのコラムをどうぞ!

 電話の進歩とまちの発展には密接な関わりがあった 携帯電話がなかった頃の電話とは?| えべつのじかんコラム

2面

2面は予算の続きと、町内の出来事の投稿を紹介する町内展望というコーナーです。

町政だより1950(昭和25)年5月号 2面 [PDFファイル/756KB]

江別町公民館(3面)

「公民館は何をするところか」という一見変わったタイトルが見えます。
1950(昭和25)年と1951(昭和26)年にかけて飛烏山公園内に2階建ての江別町公民館が建設されることになったとあります。
市民会館(1973(昭和48)年5月開館)もまだない時代、「社会教育のための学校ともいうべき公民館」という表現も見られ、大規模な施設の整備に期待が高まっていたと思われます。
「公民館の働きは一般大衆老幼男女を問わず、政治、経済、文化の各般にわたって共用の機会と研修の資料を提供して、国民文化の向上に努めるもの」となっていて、青年センターが体育施設だけでなく、音楽室や研修室、調理室などを備えるのは公民館機能の名残なのかもしれません。

「町政だよりの編集室を担当するにあたり」として助役(現在の副市長)が町政だより編集室の室長となり、編集の実務を6名の職員が担うことになったと説明されています。
このときから毎月1回の発行、各戸配布のスタイルが確立したようです。

町政だより1950(昭和25)年5月号 3面 [PDFファイル/725KB]

4面

4面には各課からのお知らせが載っています。

見慣れないことばが出てきました。「視聴覚教育に就(つい)て ナトコ映写機の活用」
ナトコ映写機とは米軍が第二次世界大戦中、軍の慰問のため映画の上映に使っていた16ミリ映写機のことで、戦後日本の民主化を進めるため、この映写機を使った教育映画の上映会が開催されていたようです。
全国の自治体に貸し出されたうちの1台が、江別町、白石村(現在の札幌市白石区及び厚別区の全域、豊平区の一部の地域)、札幌村(現在の札幌市東区)、新篠津村で順々に使われていたようで、当時はまだ戦争の記憶が色濃く残っていたようです。

全体に写真が1枚も使われていませんし、結びの編集後記もとても固いですが、これから良くしていこうという明るい希望が感じられます。

町政だより1950(昭和25)年5月号 4面 [PDFファイル/767KB]

最後に

町政だより通巻1号の紙面レイアウトや文章、言葉遣いなどはどう見ても新聞そのもの、広報誌を見慣れた2023年の私たちからすると一見、今と似ても似つかないもののようにも思えます。
しかし町政だよりが作られるようになった理由は、いまの広報えべつが目指していること、つまり、市と市民の方々がいろいろな情報を共有し、まちづくりをともに進めるための懸け橋となること、これとまったく同じ。
73年の時を経ていても、町政だよりはまさに広報えべつにつながっているのです。

ホームページやSNSなど、デジタル技術が進んで、形はさまざまに変わっても、広報誌の目標はこれからも変わることはないと言い切れそうです。 (完)

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